財団は、帝人株式会社の創業メンバーである久村清太氏の功績を讃え、『科学技術の振興』、および『若き科学技術者の育成』を目的に、昭和29(1954)年7月に文部大臣の許可を得て、設立されました。
当財団は、その設立以来長きにわたって、約1,700名もの理工系大学院生に支援を行ってきており、ノーベル化学賞受賞者を含む、多くの科学技術者の育成に貢献して参りました。
財団は、帝人株式会社の創業メンバーである久村清太氏の功績を讃え、『科学技術の振興』、および『若き科学技術者の育成』を目的に、昭和29(1954)年7月に文部大臣の許可を得て、設立されました。
当財団は、その設立以来長きにわたって、約1,700名もの理工系大学院生に支援を行ってきており、ノーベル化学賞受賞者を含む、多くの科学技術者の育成に貢献して参りました。
昭和28(1953)年 |
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昭和29(1954)年 |
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昭和34(1959)年 |
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昭和45(1970)年 |
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昭和62(1987)年 |
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平成15(2003)年 |
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平成25(2013)年 |
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令和6(2024)年 |
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わが国初の化学繊維「レーヨン」。久村清太は、今から100年以上前、化学繊維がまだ海のものとも山のものともわからぬ時代にその研究に没頭し、独自の力で、日本で初めて化学繊維(レーヨン)の製造技術を確立した研究者です。彼はその一生を新技術の開発へ捧げました。久村清太の歩みが、すなわち、わが国の繊維産業の歩みそのものであり、その成果の一つひとつが、今日の合繊産業の発展の礎となりました。
明治13(1880)年10月3日、山形県酒田市生まれ。荘内中学から旧制二高、24歳で東京帝國大学工学部応用化学科へ進学するも中退。在学中より研究を進めたレザークロスの特許を取得し、明治41(1908)年、29歳で東レザー技師長に就任しました。これ以降もレーヨン製造の研究に精魂をかたむけ、その生涯をわが国繊維産業の発展に捧げることとなりました。
大正7(1918)年5月には、海外技術の導入のため欧州・米国を視察。11ヵ月の長期滞在のすえ、多数の技術を持ち帰りました。その後も欧州・米国を中心とする2度の海外長期出張により、久村清太は海外の先進技術をわが国にもたらしました。また同年6月、帝國人造絹糸(現帝人株式会社)取締役、昭和9(1934)年に同社長に就任。昭和12(1937)年には、帝人1社で当時のフランス一国の全生産量を凌駕するだけの規模に育て上げ、「日本化繊工業の父」と呼ばれるようになりました。
また戦後は帝人会長、日本化学繊維協会長も務め、GHQ(連合国軍総司令部)とともに、わが国繊維産業の復興に尽力しました。人絹製造法を研究した化学者、発明家として名を馳せた久村は、昭和3(1928)年、48歳で独創的な人絹発明の功績により藍綬褒章を受賞するなど、輝かしい功績を残しましたが、昭和26(1951)年9月1日、70歳で死去しました。
その後、久村清太の功績を記念して、昭和29(1954)年に財団法人である帝人奨学会(現公益財団法人帝人奨学会)が設立されました。本奨学金制度は、卒業後の進路に義務的拘束を加えない、という点で当時としては画期的な制度であり、創設以来、約1,700名もの理工学系大学院生の研究生活を支援し続けています。
その生涯を絶えざる研究と革新に費やした久村清太の志は、「若き科学技術者を育成する」という形で、いまなお現代に引き継がれています。
明治13(1880)年 | 10月3日、山形県酒田市に生まれる。 |
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明治36(1903)年 | 第二高等学校を卒業。同年東京帝国大学応用化学科へ入学。 |
明治40(1907)年 | 東京レザー合資会社を設立。 |
大正7(1918)年 | 海外技術の導入のため、11ヵ月間洋行。 その後も大正10年(1921年)に13ヵ月間、昭和3年(1931)年に7ヵ月間、 欧州・米国を中心に計13ヵ国を洋行するなど先進技術の導入に力を注いだ。 |
昭和3(1928)年 | 「ビスコース式」人造絹絲の工業化の功により、藍綬褒賞を授与される。 |
昭和9(1934)年 | 帝国人造絹絲株式会社取締役社長に就任。 |
昭和20(1945)年 | 同社取締役会長に就任。 |
昭和26(1951)年 | 9月1日死去。享年70歳。従五位勲四等に叙せられる。 |